裏OB 会立博物館

よくまぁここまでとっておいたものです。国宝級のコレクション、どうぞご覧ください。物持ちの良さに我ながら感心です。多くは学生時代から住んでいた府中の下宿を引き払ったときに岡山の実家に送った荷物の中から出てきたものです。
収蔵品一覧
勧誘のチラシ
私が入会を決めた平成元年に配られていたものです。
DJ・イベントの司会、原稿読みの練習に発声練習・・・なんて書かれている中、「NHKのクイズ100点満点に生出演」なんてコメントも見られます。
昼練の原稿
滑舌訓練に使っていたものです。
「あごのあばたのあと・・・」から始まるAランクから「隣の茶釜は唐金茶釜だが・・・」で終わるCランクまで。でもBランクは散逸が激しく一部しか残っていません。
原稿集
勧誘時期に使用していた「プレ原稿」、本格的な練習が始まってからの「前期原稿」。ニュースや朗読用の随筆、はたまたせりふどりといったドラマのやりとり、CMのやりとりも。内容から「その時」が浮かび上がってきておもしろ懐かしいです。ぜんぶ手書きです。企画部の皆さんの苦労がしのばれます。
アナウンス講座
前期の初めに開かれるアナウンスメントの基本講座のテキストです。やっぱり手書き。濁音と鼻濁音の違いや、母音の脱落、無声化の約束事が細かく解説されています。どんなとき無声化になるのか…なんて、みなさんまだ覚えていますか?
発表会関係
1年生のときに担当したDJ番組のキューシート(全リハ用との記載あり)やプロデューサー・1期上の宮田さんの書いた企画書コピーなど。
2枚目の写真は、2年のときの朗読番組の本番用原稿。当時はこのように朗読やラジオドラマは、A4やB5のファイルに原稿を綴じて本番に臨んでました。
発表会のパンフレット
パンフレットは中大生協の印刷局で製本していました。上質な用紙で気合入れて作ってましたよ。裏には日ごろ飲み会でお世話になっていたお店の広告が。広告収入も重要な資金でした。たまり場の「スエヒロ」なんてのもみえますね。いまは無くなってしまった有楽町の「凱旋門」も。
DJ関係
キューシートやら企画書やら。あと原稿もばらばらながら結構な数が残っていました。フェーダーの上げ下げのタイミングや曲のラップが細かく記載されています。これを書くとき・・・なんか玄人っぽさを感じたものですが、いま見返すとなんと幼いものかと…ちょっと照れくさいですね。
夏合宿のパンフレット
平成元年と2年のものが現存。自分が執行部だったころのもどこかにあるはずなんだけどなぁ・・・今のところ見つからず。見返してみるとけっこうハードなスケジュールです。
夏合宿費の領収書
領収書なんて出してたっけ?手元にあるんですから出してたんでしょうねぇ。5泊6日の日程です。4万2,000円也は当時の私たちにとってはとても痛い出費でしたが、合宿は原則全員参加・・・のとおりほぼ全員が参加してましたよ。しかし「くろ様」だって…いい加減な領収書ですね。1年生のときの合宿に違いありません。筆跡は当時総務部長の古本さんですね。
アナ研名簿
平成元年のもの。現役会員とOBのデータとが一冊にまとまっています。アナ研での配布物はほとんど手書きのだった中、唯一「ワープロ」を使って作られたものだったのではないでしょうか。
ちなみに、このホームページの随所に出てくる「アナ研坊や」の挿絵はこの表紙をスキャンして作りました。
総会の資料
平成元年の4月期総会の配布資料。
ヤングプラザでのDJ担当者の情報や行事日程などが記載されています。右下には月の会計報告が。毎月行われていた総会は、アナ研の最高の意思決定機関。欠席者には委任状の提出を求めていました。毎月このような資料が作られていたと思いますが、残っているのはアナ研に入ってはじめての総会のこの一枚だけです。
萬珍天國(まんちんパラダイス)
後生大事になんてのはまさにこのこと。学祭でやってたゲイバーでつけていた名札です。お客さんをもてなすのがトークの訓練になるんだなんて、むりやりかこつけてましたね。
でもお客さんによってネタ変え品変え…確かに訓練にはなったかもしれません。
「シャルロッテ」の名前は同級生の福島咲子ちゃんがドイツ語の授業中、先生からその名で呼ばれていたということで拝借したものです。
萬珍天國(まんちんパラダイス)�
モニター用紙の山に混ざって出てきました。
萬珍のチャージ料は200円。その前売り券として発行していたものです。「前売り入場券」なんて書いてありますね。これは私が入学して初めての学祭、初めての萬珍体験のときのもの。挿絵含め僕が描いて作りました。よく残ってたなぁ…こんなもの。
委員長選挙の公約文と議事録
自分が委員長選挙に出馬したときのもの。最低得票で落選でしたけどね・・・ははは。しかし、公約文は自分のが無いのですよ。対立候補の3人分だけが手元に現存。
でも公約文はともかく、なんで議事録を僕が持っているんだ???読み返してみると苦しいやりとりの連続・・・涙が出てきますね。自分だけでなく、候補者みんなが可哀相で。
スタジオまでの地図
確か1年生のときの夏合宿の準備、DJコンテストの打ち合わせでスタジオを使ったとき、当時委員長の加藤さんに書いてもらったものです。
なにせ1年生同士での打ち合わせにして、初めて単独でスタジオに乗り込まなければならなかったので地図を書いていただいたのだと思います。八幡山駅からの道のりを詳しく書いていただいています。左上の黒く塗りつぶされているところがスタジオの場所。「茶色いこの辺で一番みすぼらしいアパート」って説明されているのが笑えます。当時のスタジオがどんなものだったかを物語る貴重な資料。
モニターがいっぱい
DJでも班別発表でも、何かを演じたときはオーディエンスのメンバーがこうしてモニターをしてくれていました。もちろん私もオーディエンスのときはモニター書いてましたよ。紙も書き方も千差万別。みなさんの個性が現れています。もちろん厳しいコメントもありましたが、いただいて嬉しいものでした。
¨¨(カギ)に¨¨(すん)
私の同期の平原゛団゛くんのモニター用紙に必ず書かれていたサインです。カドを利用して団の字というわけ。懐かし面白いので展示品に混ぜてみました。ラジオたんぱの社用箋ですね。これは当時の平原くんのバイト先。
高速道路の領収書
日付が89年10月6日になっています。免許とって2日後。
アナ研の練習が終わって、高野くんと一緒に高幡不動のニッポンレンタカーで車(確か赤いシティだったと記憶している)を借りて一晩乗り回しました。相模原辺りまで車を走らせ戻ってきた後、高野くんらを降ろし単独ドライブを敢行。そのときのものだと思います。首都高が当時まだ600円。なにせ初の単独運転。首都高にのったはいいがおりるにおりられず。どこを走ったのかあまり記憶がありません。やっと一般道におりて「厩橋」という表示があったのだけ覚えています。よく帰れたな。
ただ、アナ研の友達と一緒にいたときのものというだけで、サークルの活動とは関係ないですね。でもこの領収書もモニターの山に紛れていました。
高天原高原リフトの半券
1年生のときの夏合宿の班別でのレクリエーションのときにみんなで山登りした記憶があるのですが、そのときのものではないかと思います。
サンモリッツ志賀の一帯が高天原っていうのか、その上った山が高天原というのか…実に神々しい名前だったんですね。その「高天原」の頂上でみんなでフリートークをしたのをうっすら覚えています。
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